LOGIN月曜日の午前九時。
帝人の執務室で、榊原が一冊のファイルを机へ置いた。
「東栄都市開発から、追加資料が一式届いております」
帝人は手元の書類から顔を上げた。
「ようやくか」
「資金繰りに関する資料、追加費用の内訳、今後十二か月の支払い予定。それから、第三者評価会社についても双方の候補整理が終わりました」
東栄都市開発との共同事業。
追加費用の六割を皇グループへ負担させながら、利益配分は従来のまま。工期遅延に対する責任まで事実上免除してほしいという要求から始まった交渉だった。
前回の協議では、双方が第三者評価会社の候補を出し、それぞれ一社ずつ拒否した上で残った候補から選ぶところまで決めている。
その準備に時間が必要だったため、交渉はいったん止めていた。
「評価会社は」
「白峰アドバイザリーで双方合意です。御影弁護士から、評価方法についての事前案も届いております」
「見せろ」
帝人は資料を
その週の土曜日。 私は帝人さんと美術館の前にいた。「……本当に来ましたね」「小春が行ってみたいと言っただろう」「『機会があれば』くらいの意味だったんですけど」「機会は作ればいい」 相変わらずだった。 ただ、今日は仕事ではない。 帝人さんもスーツではなく、落ち着いた色の私服を着ている。「帝人さん、よくここに来るんですか?」「年に何度かだな。展示による」「もっと頻繁なのかと思いました」「時間がある時だけだ。趣味だからといって、毎週来る必要はないだろう」「それもそうですね」 中へ入ると、帝人さんは受付を済ませて、そのまま展示室へ向かった。 私はてっきり。 この作品は何年のもので。 作者がどういう時代背景で。 なんて説明を始めるのかと思っていた。 でも。 帝人さんは何も言わない。 静かに作品を見て。 次へ進んで。 気になったものの前では、少し長く立ち止まる。 私もその隣で、同じように見ていた。 しばらくして。「帝人さん」「何だ」「珍しいですね」「何が」「黙ってるのが」 帝人さんがこちらを見る。「美術館でずっと喋る方がおかしいだろう」「そうなんですけど、帝人さんって普段、何か見たらすぐ分析するじゃないですか」「していないわけじゃない。ただ、ここで結論を出す必要はない」 そう言って、目の前の絵へ視線を戻す。「分からないまま見てもいいし、気に入らなければ通り過ぎればいい。仕事じゃないんだから、全部理解する必要もない」 やっぱり。 少し不思議だ。 仕事中の帝人さんなら。 分からないものを、そのままにしておくことなんてほ
午後の会議が一つ延期になった。 先方の事情によるものだったので、珍しく三十分ほど予定に空きができる。 私は変更後の予定表を確認してから、帝人さんの執務室へ入った。「十五時半まで空きました。次の資料ももう確認済みですよね? だったら、この三十分は休憩にしましょう」「俺は別に休まなくても――」「休憩です」 言い切ると、帝人さんは少しだけ眉を寄せたものの、今回は反論しなかった。 最近、この人も諦めるところを覚えたらしい。 私は給湯スペースから紅茶を持って戻り、帝人さんの前にもコーヒーを置く。「珍しいな。小春が自分から俺の分まで持ってくるのは」「いつもやってるでしょう」「仕事としてはな。今は休憩なんだろう?」 そう言われると、妙に区別されている気がする。「じゃあ返してください」「嫌だ。せっかく小春が持ってきたんだから飲む」「そういう時だけ素直ですね」 帝人さんは気にせずカップを手に取った。 私は向かいの椅子へ座る。 三十分。 せっかく仕事をしない時間ができたなら、少し前に言われたことを試してみてもいいかもしれない。「帝人さん、この前、私にも聞きたいことがあれば聞けばいいって言いましたよね」「ああ。別に一つずつ許可を取らなくてもいい。仕事の機密や他人の個人情報でなければ、答えられることは答える」「そんな本格的なこと聞きませんよ」「なら問題ないだろう」 聞いていいと言われると、逆に迷う。 好きな食べ物。 休日の過ごし方。 そういうことも知らないけれど、もっと単純なことがふと気になった。「帝人さんって、子供の頃は何して遊んでたんですか?」 少しだけ間があった。「遊びか。学校の友人と外で遊ぶこともあったし、家では本を読んでいることが多かったな。ただ、遊びそのものを強く覚えているわけじゃない」
その日の仕事が終わりかけた頃。 私は翌日の予定を整理しながら、帝人さんへ最後の確認をしていた。「明日は九時から役員会です。資料は全部揃ってます。午後の予定も変更ありませんから、今日はこれ以上増やさないでくださいね」「増やすつもりはない」「最近は信用できるようになってきました」「最初から信用しろ」「実績が必要です」 帝人さんが何か言いたそうな顔をしたけれど、反論はしなかった。 その代わり。「小春。このあと時間はあるか?」「ありますけど、何か仕事ですか?」「違う。買い物に付き合ってほしい」 珍しい言葉だった。 帝人さんと買い物へ行ったこと自体はある。 でも、「付き合ってほしい」と向こうから頼まれるのは珍しい。「何を買うんです?」「母上への贈り物だ」「ああ」 それなら納得だ。「お誕生日ですか?」「いや。少し前に母上が欲しいと言っていたものがあった気がするんだが、何だったか思い出せない」「それ、私が行っても分からなくないですか?」「小春なら母上が好きそうなものを選べるだろう」「息子が考えてくださいよ」「だから考えている。その補助を頼んでいる」 仕事みたいに言わないでほしい。 ◇◇◇◇ 会社を出たあと、私たちは百貨店へ向かった。 帝人さんは最初から迷いなく婦人雑貨のフロアへ行く。「何か候補はあるんですか?」「スカーフかバッグか、アクセサリー」「幅広いですね」「母上は大抵のものを自分で買う。だから必要なものを贈ろうとすると、ほぼ全部持っている」「御曹司のお母様らしい悩みですね」「俺もそう思う」 帝人さんは真面目な顔で店内を見る。 ただ。 五分経っても何も手に取らない。「帝人
翌日の昼前。 私は帝人さんの執務室で、午後の予定を確認していた。「十三時から経営企画との打ち合わせ、十四時半から海外事業部です。十六時の会議は資料がまだ揃っていないので、開始を三十分遅らせました。それと、榊原さんから昨日の確認事項が――」「小春」「はい?」「今朝もパンだったのか?」 私は予定表から顔を上げた。「……何の話ですか?」「朝食だ。昨日、定食屋で小春が普段何を食べているのか俺は知らないと言っただろう」「それを翌日から調べ始めるんですか?」「調べているわけじゃない。今朝、出社してすぐ紅茶を飲んでいたから、朝もそっちなのかと思っただけだ」 そう言われて、自分のカップを見る。「平日はパンが多いです。今日はトーストでした。紅茶も家で飲んできましたけど」「やっぱりか」「何が『やっぱり』なんです?」「小春は朝から米をしっかり食べるタイプには見えなかった」「偏見です」「違ったか?」「……だいたい合ってますけど」「なら観察としては間違っていない」 帝人さんは満足そうに書類へ戻った。 私は少しだけ呆れる。「帝人さん、今仕事中ですよ」「分かっている。だから一つしか聞いていない」「数を管理してるんですか?」「昼休みならもう少し聞ける」「まだあるんだ……」「嫌ならやめる」 すぐにそう返されると、それはそれで困る。「嫌とは言ってません。ただ、尋問みたいにしないでくださいね」「尋問するつもりはない。俺も答える」「帝人さんも?」「一方的に聞くだけでは会話にならないだろう」 そこまで言って、本当に仕事へ戻った。 どうやら。 本気で「私のことをもっと知る」という昨日の話を続けるつもりらしい。 ◇◇◇◇
東都アセットとの案件がひと区切りついた翌日。 珍しく、午後六時を少し過ぎたところで帝人さんの予定がすべて終わった。 追加の打ち合わせもない。 急ぎの決裁もない。 榊原さんから回ってきた確認事項も、今日はもう片づいている。「……終わりましたね」 私は予定表を見直した。「何がだ」「今日の仕事です。帝人さん、もう帰れますよ」 帝人さんがパソコンから顔を上げる。「まだ六時だぞ。以前なら、この時間からでも一件くらい予定を入れていた」「それをやめてもらうために、私と榊原さんがどれだけ苦労したと思ってるんですか」「分かっている。だから今日は入れていないだろう」「自分で言うと台無しですよ」 以前なら、ここから何か仕事を探し始めたかもしれない。 でも最近は、必要のない仕事までわざわざ増やすことは減った。 会議を減らしたこともそうだし、榊原さんや他の担当者へ任せる範囲も少しずつ広がっている。 その変化を本人がどこまで自覚しているかは分からないけれど。「では、今日はここまでにしましょう。明日の最初は九時半からです」「分かった。小春も帰る準備をしろ」「言われなくてもします」 私は自分の机へ戻り、片づけを始めた。 その時。「小春」「はい?」「夕食に行かないか。今日はこのまま帰るより、少し外で食べてから帰りたい」 いつもの帝人さんなら「夕食に行くぞ」で終わりそうなところを、今日は珍しくちゃんと理由までついてきた。「……それ、予定に入ってました?」「入っていない。今決めた」「ですよね」「嫌なら断っていい。ただ、昨日まで東都の件でずっと仕事の話ばかりだったから、今日は別の話をしたいと思った」 そう言われると、余計に断りづらい。 嫌ではない。 むしろ。 最近
東都アセットから修正案が届いたのは、それから一週間後だった。 三年後の稼働率九十二%という数字は消えている。 代わりに最初のページへ大きく書かれていたのは、この施設を今後どんな場所にするのかという方針だった。 一階は、今ある日常利用を基盤として維持する。 二階以上は店舗数を無理に埋めることを優先せず、周辺住民や子育て世代が目的を持って訪れる区画へ再構成する。 既存店舗についても、営業年数ではなく、来館動機や施設全体への効果、継続可能な条件を含めて個別に判断する。「かなり変わりましたね」「ああ。少なくとも、前より何をしたいのかは分かる」 帝人さんは修正案をめくりながら答えた。 想定稼働率は、三年後八十七%。 最初より下がっている。 でも、私は前の九十二%よりずっと現実的に感じた。「数字が下がったのに、こっちの方が良く見えます」「前の数字は全部うまくいく前提だったからな。今回は撤退する店舗も、誘致できない区画も最初から織り込んでいる」 帝人さんが収支計画を指す。「その代わり、上階の一部を無理に細かく区切らず、用途変更する案が入った。稼働率だけなら下がるが、投資額と維持費まで含めれば利益はこっちの方が安定する」「空いてる場所を全部お店で埋めなくてもいいんですね」「ああ。必要なのは区画を埋めることじゃない。施設全体を使われる状態にすることだ」 私は別のページを見る。 和菓子店は継続候補になっていた。 ただし、単純な賃料優遇ではない。 一定期間の賃料条件を調整し、その代わりに催事や地域向け企画への参加を組み込む案になっている。 一方で、長く営業していた婦人服店については、契約満了を前提に別業態を誘致する方針だった。「ちゃんと分けましたね」「小春が気にしていたところか」「はい。『昔からある店』で一括りになってないなって」 残すものと変えるもの。